未題

800字のコラム

長嶋有『サイドカーに犬』

 小4の夏休みが母の家出で幕を開けてから、突如我が家にやってきたのは「ようこ」と名乗る謎のおねえさんだった。ふつう、自己紹介をするときには名字を名乗るとおもっていたので、わたしはいきなり「ようこ」といわれ、衝撃を受けた。

 “洋子さんが現れたのは七月の終わりだった。”

 洋子さんは呼び鈴も鳴らさずがたんとドアを開くと、ずかずか、という感じで家にあがりこんできた。そしていきなり冷蔵庫を開けた。わたしは怯んだ。怯んで、女を見上げた。女はすらりと背が高かった。
 洋子さんは、母とぜんぜんちがった。ラーメンの丼にサラダを盛ったり、コーヒーカップにお茶を入れたりした。母は決して、カレー皿に菓子を盛るようなことはしなかった。

 “「いいのかな」受け取った私は小声で言った。「なにが」洋子さんはなにをびくついているのだろうという表情だった。”
 これまで守っていたルールに守るべき必要性など実はなにもないことを、このときわたしははじめて知った。

 洋子さんはまるでおとなじゃないみたいだった。こどもみたいにみえることがよくあった。母と父が暮していたころは息の詰まる生活だったので、洋子さんがやってきた夏休みは、わたしにとってもっとも解放感の強いものだった。洋子さんは解放の象徴だった。

 わたしは洋子さんがすきだった。

 “アパートに戻ると、晩御飯の食器がすべて綺麗に洗って台所の水切りカゴに整理されていた。そして居間に母がいた。…洋子さんははっとなって慌てて私の手を離した。すぐに立ち上がった母の手が私の腕を掴んだ。私は強い力で引っ張られ、母の側に来させられた。”

 「あやまりなさいよ」
 「あやまりません」
 母は構わずに腕を振り下ろした。洋子さんは思い切り叩かれた。

 “母は私にとりすがって泣いた。私は、洋子さんが殴られるのなら、当然私も殴られるはずだと思っていたから驚いた。私は母の行方を案じることなく夏中楽しんだ薄情者のはずだった。それなのに母は私をきつく抱いたまま離さなかった。”

 あれから、洋子さんとは会っていない。

福田和也『贅沢入門』

 ついに閉ざされた過去と向き合うときがきた。記憶の彼方に残る彼の面影は朧気で、ほとんどその輪郭をとらえることはできない。

 “若い人、とくに学生諸君などと話していて、よく子供のことを聞かれます。それも、わりと率直に「子供を産んで、何かいいことがあるんですか」と。まあ、こういう質問を受ければ、親がかりのクセに、あるいはついこの間まで親御さんの世話になっていたクセに、なにを偉そうに、そういうことが聞ける立場か。だいたい子供をもつということにたいして、「損得」で語るとは何事か、と一喝しなければならないのですが……。”

 教授は、世間がここまで流れてくると、こどもをもつことについてこわいと感じる若者に、一応の譲歩を示している。そして、正直なところ、教授自身はこどもをもって「得をした」と考えているそうなのだ。

 “育っていく子供とつきあっているとですね、何というのかしらね、人生を二度生きている気分になるのですよ。”

 こどもが育っていくのをみていると、わかることがたくさんある。こどもごころに漠然とながめていたさまざまな事柄の背後にあった、事情とか文脈が、よく理解できる。すると、あのとき、父親はこういうことに困っていただとか、これがあの騒ぎの原因だったのか、ということがわかる。

 そんな教授が、親として「娘と観る映画」について語っている。わたしは、この文章がいちばんすきだ。

 “娘というのは、やはりジェンダーが違うので、育つにしたがってつきあいにくくなりますね。”

 『作家の値うち』で、ある作家を恥知らずなどと揶揄した人間とはとてもおもえない。教授は、娘と観る映画ひとつ、選択するのに非常に頭を悩ませる。

 “父親とならでは、などという選択をしようという下心もこちらにありますから、どうしてもいろいろと考えこみます。”

 そういいながら、あれこれおもいを巡らせる教授を、わたしはとても愛おしくおもう。

『レ・ミゼラブル』

 警部は死んだ。彼の揺るぎない信念はさらなる抱擁に打ち砕かれ、死んだ。こころが死んだのだ。こころが死ねば人間は、容易に死ぬことができる。彼は引き金を引かなかった。否、引けなかった。最期に引き金を引くのは人間の身体ではなく、そのこころだ。彼は殺された。彼自身に殺された。
 たえきれず、リモコンへと手をのばした。彼が沈んでゆく姿をみながら、わたしはどうすればよいのかよくわからなくなった。ふと目に入ったのは、先ほど日向夏を剥いたときにつかった包丁。わたしはおもわず手をのばした。一瞬、浮かんだのだ。わたしがわたし自身の腕を切り落とす未来。

 ――恐怖。得たいの知れない闇がわたしのこころを呑み込んでしまう気がした。急いで包丁を持ち、台所へ向かった。流し場へとそれを置くとすぐ、テレビのまえまで戻ってくる。つづきはまだみていない。きっとまだ直視できない。スマホを確認すると時刻は0:00を示していた。また、ゾロ目だ。
 突然、外に出たい衝動に駆られた。世界との接触を断てば、わたしは容易にその命を手放してしまう。わたしはまだ、わたし自身を野放しにすることはできない。けれどもなにかが、わたしをこの場へと繋ぎ止めた。パソコンから、ニコニコ動画時報が流れてくる。すこしだけ、意識がこちらに戻ってくる。
 書こう。今のわたしには、それしか手段がなかった。わたしの心はまだ死んではいない。表現だけはいつでも、わたしを見捨てなかった。だから、書こう。表現することさえできれば、わたしはこれからも命を繋いでゆくことができる。
 この隔離された空間のなかで、わたしはもうしばらく時間をすごさなければならない。しかしそれは、絶望ではない。生きさえすれば、その向こうに希望を見出すことができるはずだ。一時の絶望に、惑わされるな。わたしにはみえる。光がみえる。わたしは信じている。あすは来る。

『モテキ』

 はじめはともだちのみゆきに誘われ、軽いきもちでついていった。きけば、ツイッターで知り合った幸世くんというおとこのこと、その会社のひとたちとの飲み会に参入するらしい。どうやら彼らはいまどきのIT企業で、ロックフェスなどの運営や、それにかかわるひとびとの取材にも携わっているんだとか。すごい。みゆきはいつも、どうやってそういうひとたちと知り合っているのだろう。
 着くと、男性がたくさん集まっていて、わいわいと飲んでいるようすだった。そのなかにみゆきは、あたりまえのように溶けこんでゆく。わたしはそのなかでも、もっとも年配であろう男性のとなりに促され、座った。メニューを渡される。仕事のことをきかれたので、ミニカーのデザインをしています、とこたえるとひとりだけ、すごく喜んでくれるおとこのこがいた。その子が幸世くん、だった。
 そうしていつのまにか、わたしは幸世くんのことがすきになった。彼のあたたかさが心地よかったのだ。いつでも、コンプレックスの解かれるおもいがした。だから、幸世くんはみゆきのことがすきなんだ、という事実に気づいたときにはとても辛かった。一方、どこかで期待していたのだとおもう。不倫とはいえ、彼氏もちのみゆきだから。わたしは素直に、だれかに甘えたかったのだ。
 結果、ふられてしまったのだけどね。「重い」といわれて。体まで許したのにあんまりだ、とこころのどこかでおもったりもした。自暴自棄になって、なんとうえでかいた年配の男性と、寝てみたりもした。けれどぜんぜん、こころの隙間は埋まらない。それでわたし、やっとわかったの。すすまなくてはいけないのよ。わたしはわたしを、愛してくれない男のために変えるわけにはいかないの。
 ホテルを出たその足取りで向かうのは、明け方の吉野家。朝のひかりに包まれたべる牛丼は、格別においしい。どこか晴れ晴れとしたきもちで、お肉とごはんをかきこむ、かきこむ。お代わりまで頼む。そうしてまだみえない未来におもいを馳せながら、おもう。わたしはひとりで生きていこう。この痛みを噛みしめて、胸を張っていきていこう。わたしは、わたしなのだから。

『中学生円山』

 おとこのこの妄想に限界はないのでしょうか。わたしの両親がまだ付き合いはじめたばかりのころ、こんなやりとりがあったそうです。「なぜそんな体勢でテレビを見ているの?」「こうすれば、おねえさんのパンツを拝めるかもしれないだろう!」そこには、テレビ画面を一生懸命下から覗きこむ父の姿がありました――この話をきいて、わたしはこうおもったのです。男って、ばかね。
 では、今回の円山くんはどうでしょうか。そう、みなさんご察しのとおり、ばかです。彼が毎日欠かさず自主トレを実行するのも、わざわざレスリング部に入部したのも、すべては彼のくだらない妄想の産物を現実にするための布石だったのです。え?それはどんな妄想なのか?勘弁してください。私の口からはとてもいえません。ですが、ヒントをお教えしましょう。この妄想には、男であればだれもが一度は挑戦するそうです。その証拠に、忘れたころに2ちゃんねるでは必ず、この手のスレが立っています。
 こんな映画なので、メッセージ性を探ろうとするのはやめましょう。途中で疲れてしまいます。ただ目のまえで繰り広げられる喜劇に身を委ねていればよいのです。心配しなくても、一時世間を騒がせた草なぎ剛さんが、私たちのこころに突き刺さることばを思いっきりぶん投げてくれます。「ありえないなんて君たちの思考を停止させるためにつくった大人たちのキーワードだ」「考えない大人になるくらいなら、死ぬまで中学生でいるべきだ!」
 一見中学生の妄想がとっ散らかったような作品ですが、そこには監督である宮藤官九郎さんの巧妙な演出が垣間みえます。カメラアングルひとつを取っても、まるで自分が映画のなかの光景を目の当たりにしているような錯覚に陥るのです。そうしてクドカンワールドに導かれた観客は、自分でも意識しないままに、ある世のなかの真理を感じ取ることになるでしょう。さて、おとこのこの妄想に、限界などあるのでしょうか。

『ルームメイト』

 自分だけの妖精さんをつくりだしてしまうのは、実はよくあることかもしれない。それをべつの人物にまで昇華させるのはよっぽどの場合にしろ、どんな人間でも大なり小なり、べつの人格をひとつの器に生成するのは、よくあることだろう。もうひとりの自分。身近でいえば、酒の席でよく会えるのがそいつだ。
 人間は自分ごとに執着する。ある出来事が自分自身に関連し、そのせいで災いが降ってきたり、その責任をとらなければならないとおもったとき、あるいはおもいこんだとき、その重みにほとんどの人間はつぶされてしまう。罪悪感はひとを殺す。だから、人間は生へしがみつく術として、べつの人格をつくりだすのだ。

 おとなになると、大概のひとはそうせざるをえなくなる。すべてを受けとめようとすれば、精神を酷く消耗する。厄介なのは、それが目にみえないということだ。いつのまにか削り取られ、正のエネルギーが枯渇している。気づいたときには再起不能になり、切り替えがむずかしくなる。
 そんなとき、妖精さんはわたしたちを癒してくれるのだ。べつの器を用意し、そのなかに意識を分散させることで、核となる自分への負荷は軽くなる。原理的にはそういうことだが、ファンシーなフォルムを妄想することでより現実感が薄れ、自己治癒力があがるということなのだろう。

 今回のおはなしでは妖精さんこそでてはこないものの、おなじくひとつの器のなかに自分以外ふたりの人格を生成している。事故による記憶喪失で三重人格であること自体をヒロインは忘れてしまうが、そのあいだにも受けとめきれないストレスを、ほかの人格がチワワを煮込むなどして発散している。
 こんなふうに、人間はある一定以上の負荷がかかると、それを出さずにはいられないのだ。だから、おさけを浴びるほど呑んで記憶をとばしたとき、勝手に動いているべつの自分はきっと、なにかを必死に取り戻そうとしているのだろう。そうおもえば、この映画はホラーでもなんでもなくなるはずだ。

『間宮兄弟』

 人間は居心地の良いところにいたがるものだ。仲良しすぎる間宮兄弟は、穏やかな日々を享受していた。日常というのは、ささやかなものだ。そして兄弟は、お互いの日常をあたりまえのように共有している。まるで長年寄り添った恋人同士のように、ふたりの関係はまあるくおさまっていた。
 もとから、他者の介在する隙などなかったのだ。兄、弟はそれぞれに恋をし、ときに哀れなほど傷つけられる。けれどそばには必ず兄が、そして弟がいる。これほど幸せなことがあるだろうか。兄はぽつりとこぼす。「こんなときに連絡できる相手がいるというのは、よいものだなあ」

 人間がなにかを得るためには、なにかを失わなければならない。一見身構えてしまうこの一文は、真理をついているとおもう。きっと間宮兄弟が恋人を得るためには、お互いが一旦、離れなければならないのだろう。しかし、だからといっていま、彼らがむりに離れる必要があるのだろうか。
 ――ないのだ。それは不自然におこすものではない。間宮兄弟がいつか、どちらかがどちらか以上に大切な存在をみつければ自ずと、そのときは訪れる。結局、お互いにふられ、お互いの場所にもどってきたふたり。それはとくだん、かなしむことなんかじゃない。帰る場所があるというのは、それだけで良いものだ。
 原作が江國香織にして、独特の重さがない。兄弟は彼らにしかわからない「遊び」をし、こどものように無邪気に笑う。わたしにも妹がいるので、その「遊び」がよくわかる。客観的にみれば気色わるいとすら感じるやりとりは、ある一定の距離感をこえたふたりにとっては、あたりまえのことなのだ。