未題

800字のコラム

『ルームメイト』

 自分だけの妖精さんをつくりだしてしまうのは、実はよくあることかもしれない。それをべつの人物にまで昇華させるのはよっぽどの場合にしろ、どんな人間でも大なり小なり、べつの人格をひとつの器に生成するのは、よくあることだろう。もうひとりの自分。身近でいえば、酒の席でよく会えるのがそいつだ。
 人間は自分ごとに執着する。ある出来事が自分自身に関連し、そのせいで災いが降ってきたり、その責任をとらなければならないとおもったとき、あるいはおもいこんだとき、その重みにほとんどの人間はつぶされてしまう。罪悪感はひとを殺す。だから、人間は生へしがみつく術として、べつの人格をつくりだすのだ。

 おとなになると、大概のひとはそうせざるをえなくなる。すべてを受けとめようとすれば、精神を酷く消耗する。厄介なのは、それが目にみえないということだ。いつのまにか削り取られ、正のエネルギーが枯渇している。気づいたときには再起不能になり、切り替えがむずかしくなる。
 そんなとき、妖精さんはわたしたちを癒してくれるのだ。べつの器を用意し、そのなかに意識を分散させることで、核となる自分への負荷は軽くなる。原理的にはそういうことだが、ファンシーなフォルムを妄想することでより現実感が薄れ、自己治癒力があがるということなのだろう。

 今回のおはなしでは妖精さんこそでてはこないものの、おなじくひとつの器のなかに自分以外ふたりの人格を生成している。事故による記憶喪失で三重人格であること自体をヒロインは忘れてしまうが、そのあいだにも受けとめきれないストレスを、ほかの人格がチワワを煮込むなどして発散している。
 こんなふうに、人間はある一定以上の負荷がかかると、それを出さずにはいられないのだ。だから、おさけを浴びるほど呑んで記憶をとばしたとき、勝手に動いているべつの自分はきっと、なにかを必死に取り戻そうとしているのだろう。そうおもえば、この映画はホラーでもなんでもなくなるはずだ。