未題

800字のコラム

生月誠『不安の心理学』

 真っ暗で底なしでなんにもなくて、そこに自分の意識が下に下におちていって同化する、意識が浮上しておちて、浮上しておちて、目まぐるしく夢をみて、たまになんにもなくなって、夕方になる。目が覚めてわたしは、自分がいったいなんなのかよくわからなくなる。
 不安とはいったいなにか。ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーはその著書『存在と時間』のなかで、「恐怖が臨んでいるところのものは特定の恐いものであるが、不安が臨んでいるところのものは無であり、なんら特定のものは存在しない」と述べている。

 本書ではとりわけ対象のない不安については慢性不安といい、不安への直面を、日常的にそれまで親しんでいた非本来的な人間の在り方から、本来的な在り方に自分を連れ戻そうとする過程としてとらえる考えを「不安根源説」とよんでいる。
 一方、これとは対照的に、不安は甘ったれている証拠であり、怠けて楽をしようとするからわけのわからない不安におそわれるのだと主張する考えを「不安―甘え説」とよんでいる。
 “夏目漱石の『行人』という小説を読みました。主人公の一郎には、生活のために働かなければならないという面が、ほとんど感じられず、彼は一日中思索にふけっていて、すべてが疑わしくなり、強い不安におそわれるようです。私のように、生きるために必死で働かなければならない者は、いろいろ悩みはありますが、『行人』のようなばかばかしいことに悩むようには、絶対にならないと思います。”

 これらの異なる見解はおそらく永遠に交わることはなく、また、「不安根源説」の人間が抱える漠然とした不安は、「不安―甘え説」の人間にとっては「ひまだから」と一蹴されるような些細なざわめきでしかないということができるであろう。
 どちらがどうということはないのだが、しかし、「不安―甘え説」の人間の視線をかいくぐりながら、不安と直面し人間を解明しつづけることは果たして無意味なのかと、わたしは地球の片隅で問いたいのである。