未題

800字のコラム

村上春樹『職業としての小説家』

 “小説家はある種の魚と同じです。水中で常に前に向かって移動していかなければ、死んでしまいます”

 わたしはつねづね、自分がなぜいまもこうしてパソコンに向かい、飽きもせず文章を生産しつづけるのか疑問におもうことがある。大学三年の秋、毎日毎日ばかみたいに筆を塗りたくっては、その魅惑に取り憑かれるよう文字に溺れていた。そうしていないと、自分が自分ではなくなってしまう感覚に陥るのだ。

 だから、強くおもう。

 “真の作家にとっては文学賞なんかより大事なものがいくつもある”

 村上春樹にとって、それは読者だった。

 “どのような文学賞も、勲章も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味を持ちません”

 おもえば苦しいとき、そこには必ず読者の存在があった。あるときは親友だった。あるときは先輩だった。あるときは顔を合わせたこともないだれかだった。彼らが見守ってくれていたおかげで、わたしはここまで生き延びてこられたのだ。

 “しかし世間の人々は多くの場合、具体的なかたちになったものにしか目を向けないということも、また真実です”

 ここにはどうしても、オリジナリティーの問題が含まれる。

 “何がオリジナルで、何がオリジナルではないか、その判断は、作品を受け取る人々=読者と、「然るべく経過された時間」との共同作業に一任するしかありません”

 同時に、オリジナリティーだけでは立ち行かない。

 “正気を失っている人間にとって、正気の人間の意見はおおむね大事なものです”

 何度も戻ってこなければならないのだ。

 “あなたが世間を無視しようとすれば、おそらく世間もあなたと同じようにあなたを無視するでしょう”

 そのために必要なのが「定点」の存在であり、わたしの場合、陰ながら見守ってくれているあなたのことなのだ。ほんとうに、いつもありがとう。

『わたしを離さないで』

 まったく、不思議な重みだ。これはたとえば、今後一週間、わたしの心に纏わりつき、どんよりとした気配を残してゆく類いのものとはちがう。むしろどこかやさしさを、悟りのようなものを与えてくれる。キャシーも、トミーも、ルースも、みんな死んでしまうのに。きっと、しまう、という感じがしないからだとおもう。

 「知っているでしょう?覚悟しているとその通りになる」

 看護師からキャシーにかけられた何気ないひと言。そのことば通り、覚悟を決めたルースは三度めの臓器提供手術で、息を引き取ることになる。けれど、それはいったい哀しいことだろうか。わたしには、ルースは全うしたように思えるのだ、人生を。
 最初から、ほかの人間に臓器提供をするためだけに生まれついた命。行き先は決まっている。だから「自由」はありません、と外部の人間はいう。しかし、果たしてほんとうにそうだろうか。たしかにわたしたちは、臓器提供を義務づけられているわけではない。しかし人間は、生きている限り皆、「不自由」ではないだろうか。

 「ではおまえは、死は怖くないのか?」

 そう問われれば、こわい。現段階で余命を宣告されれば、トミーのように癇癪をおこすだろうし、唯一の希望だった「猶予」がはなっからないものだったと知らされたとき、平常心ではいられないだろう。すくなくとも、こんなに悠長なことはいっていられないはずだ。
 だから、きっと叫びたくなる。「わたしを離さないで」。ここにわたしは、生きる、ということの美しさを感じる。儚さを感じる。生の意味など、元からないのかもしれない。けれどそのなかで、醜くも命を繋ぎ止めようともがく。もっとも「不自由」なはずの生へ、しがみつこうとする。

 人間は矛盾している。しかし、それが良い。そう考えると、不思議と心がおちついてくるのだ。どんなことも出来得る限り受け入れて、すこしずつ生を紡いでゆこう。そういうふうに、前向きになれる気がする。それはたぶん、わたしたちがほんとうの意味で不自由ではないからだろう。わたしたちはいつでも、自由なのだ。

吉本ばなな『アムリタ』

 徹夜明けの身体を引きずりだして、玄関の扉に手をかけた。――重い。外に出ると、まっすぐ眼球に突き刺さる太陽のひかりが痛い。「それでも、この衝動をおさえこんではいけない」。そう、おもった。

 階段をずるずるとおりて、雑多に並べられた自転車の山から自分の自転車を引っ張りだす。それだけで汗が滲む。なんとか自転車に乗りこむ。ぐい、とペダルを踏みこんだ途端、頭がくらりとした。貧血だろうか。ここのところ、まともな生活をおくってはいないのだった。
 急くきもちをかたちにするよう、本屋へと向かう。駅とは逆行するこの道のりは深夜、これとおんなじ衝動を抱えたときにしかとおることはない。日常では必要のない道なのだ。

 『アムリタ』はなかった。以前は、開いた途端、没頭した本。そのくせ、まだ手もとにはない本。下巻の途中でよむことを放棄してしまったのは、こわくなってしまったのだろう。一度目にすればもう、みえないふりをすることはできないのだ。
 そしていま、ようやくよむ準備がととのったとおもったら、今度は彼女のほうから拒否されてしまった。すれ違う恋人みたいに切なくなって、わたしはちょっぴり、センチメンタルな気分に沈んだ。すごすごと本屋を退散する。

 きのう、たまたま寄り道した本屋で、『アムリタ』をみつけた。ついにきた、そうおもい手をのばしかけ、わたしは躊躇った。その本からはもう、あのころとおんなじ威圧を肌で感じたのだ。実際手にとれば、本はやはりずしんと重い。
 わたしはまた、機会を逃してしまったらしい。買おうかどうかずいぶんと迷って、結局、買わないことを選んだ。ふたりの息が合わないとき、むりやり呼吸を合わせようとするのはナンセンスだ。
 でも、いつかきっと、『アムリタ』を最後までよみたいとおもう。彼女のあの独特の、視野が必要になる時期がきっとやってくるとおもう。だからいまは、そっと本を棚にもどす。彼女とはすこしずつ、そして、永遠に付き合っていけばいい。

二ノ宮知子『のだめカンタービレ』

 どこからかクラシックがきこえてくる。ページを捲る手がなにかの流れに乗っている。でもこれは音楽に、乗っているんじゃない。捲ってから、音がきこえてくるからだ。物語の曲線に誘われている。メロディーはそれにつづく。ページを捲る手が徐々に加速する。なにかに呑み込まれる、音楽もスピードを上げる、音がだんだん大きくなる、捲る、捲る、捲る捲る、物語、音楽、そしてわたし自身がピークに達する!
 この高揚感は、そう、体操だ。器械体操の試合そっくりだ。緊張で張り詰めた独特の空気。優勝へのプレッシャー。でもそんなの、問題じゃない。“要”は自分との対峙。おくのおくに意識を集中させ、ピンと、一本の糸を張る。とてつもなく広い、それでいて深いなにかと接続する瞬間。ーー気づくと、弾けるような歓声がきこえる。いつのまにかこちらの世界に戻っている。振りかえるとそこに、奇跡がある。
 紙のまえで、泣いたり、笑ったりする。どうしようもなく高鳴る胸を抑えきれず、歯がゆいおもいがする。同時にまだ、自分のなかにこれだけの躍動があることを知る。今すぐに、出したい。でも、そうか。わたしはとっくの昔にピアノを捨ててしまったのだった。そうだ、いまのわたしは感覚そのものをかたちにする手段を持ち合わせていない!
 弾む、弾む。それでもなにかは跳ねている。漫画を閉じてもくりかえし流れてくるクラシック。これはモーツァルト、2台のピアノのためのソナタ第1楽章。その脈動は紙を伝い、手を伝い、身体全身を駆けめぐり、やがて現実世界にも波紋を広げる。読んでいるのは文字ではない。みているのは画ではない。わたしたちは作者自身の、魂の在り方を丸ごと呑み込んでいるのだ。

末次由紀『ちはやふる』

 大学二年生、三月。

 労働において、身体的労力などたいした問題じゃない。速報原稿をスタジオに突っ込んだり、テープ編集のため階段を何度も駆けあがったり、おりたり。そのせいで汗まみれになっても、足にマメができても、そういうことはとくだん、気にもならなかった。
 しかし、精神はべつだ。侮蔑の滲みでる表情でため息をつかれ注意される日常は、苦しい。出勤まえ、泣きながら息をととのえ、失敗したらトイレへ駆け込み、得体の知れない恐怖に付き纏われる日々は、たしかに異常だった。

 堕ちて、堕ちて、もうだめだ、逃げ出したい、そんなことにばかりぐるぐるおもいを巡らせるなか、それでも一筋のひかりを与え、踏ん張る勇気をくれたのは『ちはやふる』だった。わたしは何度も何度もページを捲っては、千早に助けられたのだ。そう、断言する。
 ほんとうは、作品に良いもわるいもない。すきならば、それでよい。つながっていれば、それがよい。主観の集積のなか生きるわたしたちは、その都度、心の琴線に触れる作品を選び取り、生かす。そこでは驚くくらい客観性が無視される。けれど、それのなにがいけないというのだ。

 数年経ったいま、ひさしぶりに『ちはやふる』をよんでみた。なんということはない。1ページめで涙があふれてくる。もちろんそれは、あのころのわたしのおもいと、作品と、作品のその後と、あらゆる要素が洪水となって押し寄せてきたからだ。そこに冷静な自分はいない。
 わたしはずっと、失ってしまったのだとおもっていた。そして、もう二度と取り戻すことはできないとおもっていた。しかし、最近おもうのだ。もしかすると、時間さえかければわたしも、ひとりぼっちで泣いている幼いころの自分を発見し、手を差しのべることができるのかもしれない。

 千早ぶる
 神代もきかず
 龍田川
 からくれなゐに
 水くくるとは

浅野いにお『おやすみプンプン』

 ベーコンマヨロールが急にたべたくなった。ほんとうに急だった。セブンイレブンに電気代を支払いにいったとき、ちょうど目についたのがきっかけだ。ふだん滅多に買うことのないそれに、わたしは熱烈に惹かれていた。
 ほんとうは、家にうなぎがあった。ここ何日かたべつづけている、うなぎ。だから、ベーコンマヨロールを買うかどうかとても迷った。もしいまここでベーコンマヨロールをたべれば、わたしはまたすべてを一からやりなおさなければいけない、そうおもった。
 しかし、わたしはベーコンマヨロールがたべたかった。熱烈にたべたかった。毎日出されるうなぎではなく、なんの変哲もない、ひとつ129円のベーコンマヨロールがたべたかったのだ。

 わたしはちょうど、『おやすみプンプン』をよんでいるところだった。きっと、愛子ちゃんに何ねんも囚われつづけるプンプンをみて、そんなことを考えたのだとおもう。プンプンは、幼いころ出会った愛子ちゃんを、何ねんも何ねんも想いつづけた。
 想いつづける、なんてことばは相応しくないのかもしれない。それはもう、執着だった。会いもしない愛子ちゃんが、プンプンのこころのなかで膨らみつづける。そのせいで、プンプンは悩みつづける。不毛だった。

 ベーコンマヨロールのひと口目は、涙が出るほどおいしかった。やわらかいパンの食感に、マヨネーズの風味が広がる。ひとつ129円のベーコンマヨロールでなぜこんなにも泣いているのか、意味がわからなかった。ただ感動していた。
 しかし、何口かたべるとすぐ、そんなベーコンマヨロールの味に飽きてしまった。半分もたべるまえに飽きた。わたしに涙まで流させたそれも、やはりただのベーコンマヨロールだったのだ。不思議だ。
 わたしはきっと、プンプンみたいな人間をどこかで理解したくないのだとおもう。愛子ちゃんもそうだ。囚われつづけるふたりの関係が恐ろしくて、恐ろしくて、わたしは急いでベーコンマヨロールをたべきった。

古舘春一『ハイキュー!!』

 王道らしい王道漫画では、ない。というのも、悪役らしい悪役がこの物語に存在しないからだ。ほかのスポーツ漫画によく登場する、反則によって相手選手を貶めるような邪悪なキャラクターはいない。それぞれがそれぞれの人生を精いっぱい生きている。だから、ひとつひとつの描写がとても丁寧なのだ。
 考えてみれば、人生はそもそもが地味なものかもしれない。螺旋丸や卍解など、できるできないを実感する技を身につける機会などほとんどない。こどものころならまだしも、おとなになるにつれなにをもって進歩とするか、それすらも目にはみえず、評価のむずかしいことが多い。そんななか、こころを折らず生きていくことのなんと途方もないことか。
 物語とは、そんな果てない道のりを目にみえてわかりやすく、結果を伴いながらわたしたちに提供してくれる。それが娯楽となり、勇気となり、わたしたちに生きる力を与えてくれる。けれど、それも度がすぎてファンシーだと、あるときから一気にたえられなくなる。単純な善悪の戦いは、どちらかを必ず悪者として罰することになってしまう。

 もうひとつ、注目してほしいのはスランプの扱い方だろうか。人間は進歩するとき、一度後退する。正確には、つぎのステージにすすむためにそれまでのかたちを一旦崩し、新しい要素を取り入れるということなのだが、その描写もまた、とにかく丁寧に描かれているのだ。無理難題を押しつけられ、短期間で修行してパワーアップする、という主人公も魅力的ではあるのだが、これだと人生には応用しきれない。
 つまり『ハイキュー!!』は、これまでの短期決戦型漫画とは一線を画しているのだ。ゆえに、地味ではある。けれど、登場人物ひとりひとりに寄り添い、こつこつと物語を積み上げていくその姿勢は、人生においても見習うべきところがあるはずだ。ただ安穏と生きるのでなく、闇雲に生きるのでもない。腰を据えて目標を達成していく、ということの重要性がよくわかる漫画だといえるだろう。