福田和也『贅沢入門』
ついに閉ざされた過去と向き合うときがきた。記憶の彼方に残る彼の面影は朧気で、ほとんどその輪郭をとらえることはできない。
“若い人、とくに学生諸君などと話していて、よく子供のことを聞かれます。それも、わりと率直に「子供を産んで、何かいいことがあるんですか」と。まあ、こういう質問を受ければ、親がかりのクセに、あるいはついこの間まで親御さんの世話になっていたクセに、なにを偉そうに、そういうことが聞ける立場か。だいたい子供をもつということにたいして、「損得」で語るとは何事か、と一喝しなければならないのですが……。”
教授は、世間がここまで流れてくると、こどもをもつことについてこわいと感じる若者に、一応の譲歩を示している。そして、正直なところ、教授自身はこどもをもって「得をした」と考えているそうなのだ。
“育っていく子供とつきあっているとですね、何というのかしらね、人生を二度生きている気分になるのですよ。”
こどもが育っていくのをみていると、わかることがたくさんある。こどもごころに漠然とながめていたさまざまな事柄の背後にあった、事情とか文脈が、よく理解できる。すると、あのとき、父親はこういうことに困っていただとか、これがあの騒ぎの原因だったのか、ということがわかる。
そんな教授が、親として「娘と観る映画」について語っている。わたしは、この文章がいちばんすきだ。
“娘というのは、やはりジェンダーが違うので、育つにしたがってつきあいにくくなりますね。”
『作家の値うち』で、ある作家を恥知らずなどと揶揄した人間とはとてもおもえない。教授は、娘と観る映画ひとつ、選択するのに非常に頭を悩ませる。
“父親とならでは、などという選択をしようという下心もこちらにありますから、どうしてもいろいろと考えこみます。”
そういいながら、あれこれおもいを巡らせる教授を、わたしはとても愛おしくおもう。