藤田博史『性倒錯の構造』
男と女とはなにか。そもそも性差にはふたつあると筆者は語る。生物としての性差と、象徴界における性差である。これらの相対的な関係を明らかにするためには、男性、女性は互いをその欲望の対象として選択するという対称性にもかかわらず、子は必ず、母という女性から生まれてくるという非対称性に目を向けなければならない。つまり、子にとって欲望の対象はすべからく母親だということである。
“女性は母を超えて男性に向かわなければならない。母を欲望の対象から欲望の出発点に置き換えることにより、はじめて欲望の対象が異性になりうる。すなわち、女性の欲望の達成の過程には、まず母の位置まで辿り着き、母を踏み台とした上で男性を欲望する、という迂回の手続きが要請されている。”
しかし、ここである問題が発生する。女性は母の場所に自らを平行移動させることで、エディプス的状況を解決するのでなく保留へと持ち込んでしまい、これにより、女性はその性の同定においてつねに動揺し、その旅のなかで漂流せざるをえないというのである。
“日常生活のなかで、女性は、自分が女性であるということの背景には、なにか大切なものが失われているということを、それとなく知っている。女性にとって、なにかを手に入れるということは、同時になにかを失うということを意味する。”
具体的にいうならば、女性は男性との比較により、自ら欠けているものをまず他者の場所に見いだす。つまり、女性という場所そのものが、男性のファンタスムに支えられ、事後的に浮かび上がるような曖昧で不確かな場所であるということができる。
したがって、女性の位置は男性の欲望のヴェクトルによって指し示され、また女性はこのヴェクトルを受け、自らの位置を仮固定する。いわば欲望のヴェクトルの玉突きである。しかも、玉は永遠にすれちがいつづける虚構のゲームといわざるをえない。あらためていうまでもなく、男性と女性の関係は謎に満ちているのである。