未題

800字のコラム

立川談春『赤めだか』

 冒頭からなみだがあふれてとまらなかった。わたしは枕に顔をうずめながら、ほんとうに変わる気があるのかと何度も何度も問うた。
 「落語は人間の業の肯定だ」
 人間って極限まで追い詰められたら他人のせいにしてでも云い訳しちゃうもんなんだ。

 “聴く者の胸ぐらつかんでひきずり回して自分の世界に叩き込む談志の芸は、志ん朝の世界とは全く別物で、聴き終わったあと僕はしばらく立てなかった。好き嫌いや良否を考えるスキも暇も与えてくれない五十分が過ぎたあと、思った。
 志ん朝より談志の方が凄い。”

 上手な落語が必ずしもひとのこころを打つわけではない。観客はめいめい「名人芸だ」と笑顔で語りながら会場をあとにしてゆくかもしれない。しかし、談志の芝浜のときのように、おもいつめた顔でうつむきながら帰ってゆくひとはひとりもいないのだ。
 “談志の弟子になろうと決めたのはその時だった。”

 虚飾にまみれたことばになんの意味がある。相手をよろこばせる上辺だけのおべっかに歓喜するほど純粋なのか。
 人間のどろどろとしたおくのおくの醜いところに手エ突っ込んで、でてきたへどろを掻き分け残るたったひとつの良心信じ、わたしは生きている気がする。まだ生きている気がする。

 “修行とは矛盾に耐えることだ。”
 やらなくても日常は流れていく。実際、そうして何年も何年も流れていく。けれど変わるきっかけなんて目のまえに、その瞬間に、いくらでもころがっているではないか。だとして、やるかやらないかは自分自身の問題ではないのか。
 “重ねて云うが、談志は揺らぐ人なのである。ならばその揺らぎを自分のプラスに利することはできないか。”
 長くやってりゃ形にはなる。ということは長くやらなきゃ形にはならないということで、形にならない部分をどんな知恵で補ってくるか、談志は試しているのでないか。拙くてもいい。とにかくあきらめんなよ。