未題

800字のコラム

吉本ばなな『アムリタ』

 徹夜明けの身体を引きずりだして、玄関の扉に手をかけた。――重い。外に出ると、まっすぐ眼球に突き刺さる太陽のひかりが痛い。「それでも、この衝動をおさえこんではいけない」。そう、おもった。

 階段をずるずるとおりて、雑多に並べられた自転車の山から自分の自転車を引っ張りだす。それだけで汗が滲む。なんとか自転車に乗りこむ。ぐい、とペダルを踏みこんだ途端、頭がくらりとした。貧血だろうか。ここのところ、まともな生活をおくってはいないのだった。
 急くきもちをかたちにするよう、本屋へと向かう。駅とは逆行するこの道のりは深夜、これとおんなじ衝動を抱えたときにしかとおることはない。日常では必要のない道なのだ。

 『アムリタ』はなかった。以前は、開いた途端、没頭した本。そのくせ、まだ手もとにはない本。下巻の途中でよむことを放棄してしまったのは、こわくなってしまったのだろう。一度目にすればもう、みえないふりをすることはできないのだ。
 そしていま、ようやくよむ準備がととのったとおもったら、今度は彼女のほうから拒否されてしまった。すれ違う恋人みたいに切なくなって、わたしはちょっぴり、センチメンタルな気分に沈んだ。すごすごと本屋を退散する。

 きのう、たまたま寄り道した本屋で、『アムリタ』をみつけた。ついにきた、そうおもい手をのばしかけ、わたしは躊躇った。その本からはもう、あのころとおんなじ威圧を肌で感じたのだ。実際手にとれば、本はやはりずしんと重い。
 わたしはまた、機会を逃してしまったらしい。買おうかどうかずいぶんと迷って、結局、買わないことを選んだ。ふたりの息が合わないとき、むりやり呼吸を合わせようとするのはナンセンスだ。
 でも、いつかきっと、『アムリタ』を最後までよみたいとおもう。彼女のあの独特の、視野が必要になる時期がきっとやってくるとおもう。だからいまは、そっと本を棚にもどす。彼女とはすこしずつ、そして、永遠に付き合っていけばいい。