末次由紀『ちはやふる』
大学二年生、三月。
労働において、身体的労力などたいした問題じゃない。速報原稿をスタジオに突っ込んだり、テープ編集のため階段を何度も駆けあがったり、おりたり。そのせいで汗まみれになっても、足にマメができても、そういうことはとくだん、気にもならなかった。
しかし、精神はべつだ。侮蔑の滲みでる表情でため息をつかれ注意される日常は、苦しい。出勤まえ、泣きながら息をととのえ、失敗したらトイレへ駆け込み、得体の知れない恐怖に付き纏われる日々は、たしかに異常だった。
堕ちて、堕ちて、もうだめだ、逃げ出したい、そんなことにばかりぐるぐるおもいを巡らせるなか、それでも一筋のひかりを与え、踏ん張る勇気をくれたのは『ちはやふる』だった。わたしは何度も何度もページを捲っては、千早に助けられたのだ。そう、断言する。
ほんとうは、作品に良いもわるいもない。すきならば、それでよい。つながっていれば、それがよい。主観の集積のなか生きるわたしたちは、その都度、心の琴線に触れる作品を選び取り、生かす。そこでは驚くくらい客観性が無視される。けれど、それのなにがいけないというのだ。
数年経ったいま、ひさしぶりに『ちはやふる』をよんでみた。なんということはない。1ページめで涙があふれてくる。もちろんそれは、あのころのわたしのおもいと、作品と、作品のその後と、あらゆる要素が洪水となって押し寄せてきたからだ。そこに冷静な自分はいない。
わたしはずっと、失ってしまったのだとおもっていた。そして、もう二度と取り戻すことはできないとおもっていた。しかし、最近おもうのだ。もしかすると、時間さえかければわたしも、ひとりぼっちで泣いている幼いころの自分を発見し、手を差しのべることができるのかもしれない。
千早ぶる
神代もきかず
龍田川
からくれなゐに
水くくるとは