未題

800字のコラム

岡田尊司『あなたの中の異常心理』

 だれもが異常心理を抱えている。人間は、二面性を抱えた生きものなのである。
 “身近でみられる心理状態で、正常心理としても認められ、また、極めつけの異常心理にも通じるのが、完璧主義や潔癖症といった完全性や秩序に対する強迫的なこだわりである。”

 完璧主義の悲劇を描いた映画『ブラック・スワン』では、バレリーナのニーナが『白鳥の湖』のスワン・クィーンを演じるにあたり、純真無垢なホワイト・スワンと、官能的な魅力のあるブラック・スワンの両方を演じることを要求される。しかしニーナには、ブラック・スワンの怪しい魅力がどうしてもだせない。そこで、監督のトマスから、もっと自分を解放し、性的な喜びを知らなければならないといわれる。
 しかし、ニーナは性の快楽に自らをゆだねることに抵抗をおぼえ、それどころか、完璧ではない自分を罰したくなる衝動のために、自傷行為をくりかえす。あるとき、監督から自慰をするよういわれたニーナは、自室のベッドで、母親の存在に気づく。彼女の眼差しはニーナの性生活にまで注がれ、純真無垢なよい子であることを背負わされた重苦しさがスクリーンに漂う。

 完璧主義はひとつの美意識ともいえる。その本質は同一を求める反復強迫であり、反復すること自体が目的となってくりかえされるのである。そういった点で、過食症と万引きはよく似ている。必要を満たすために摂る/盗るのではない。摂る/盗るために摂って/盗っているのである。
 完璧主義を捨てよ、と筆者はいう。なにかを強制すると、あとで必ず反動がくる。
 “完璧主義というものは、人を成功へと押し上げる原動力にもなるが、ひとたび歯車が逆回りし始めると、同じ完全を求める気持ちが、不完全な自分を死へと追い詰める殺人装置になりかねない。”
 混乱した見通しのない時代を生き延びるうえでは、不遇なとき、むしろ不完全な自分にたえられる強さこそが求められるのである。

グレン・ネイプ『ぬいぐるみさんとの暮らし方』

 『ぬいぐるみとの暮らし方』ではない。『ぬいぐるみさんとの暮らし方』である。
 “この本のように、あまり「普通」ではない本は、必ずやいろんな議論を引き起こすことになると思います。読者の多くは、果たしてわたしが本気なのか、この本の内容が事実なのか、きっといぶかしく思うことでしょう。もちろん、わたしは本気ですし、書いてあることは事実です。”

 ぬいぐるみの進化をたどるのは、とてもむずかしい。1920年、最初の「テディ・ベア」が生まれた年よりまえのぬいさんの歴史は、いまだ謎につつまれている。“ぬい”さんとは、“ぬいぐるみ”さんの略である。また、生まれたてのぬいさんのことを“新ぬい”さんといい、ぬいさんの人生のことを“ぬい生”という。
 本書で一貫しているのは、ぬいさんは生きているということである。たとえばぬいさんは、食事をする。繁殖をする。病気にもなる。
 ぬいさんにとってもっとも一般的な病気は「自己否定」である。これは人間が偶然、ぬいさんに印象づけてしまった、ネガティブな考えのせいでおきる。自己否定は、新ぬいさんが、「ぬいぐるみなんて、生きていない、生命のないおもちゃだ」という考えを受け入れたときからはじまり、自己否定がすすめば、治療はきわめてむずかしくなる。
 なにせぬいさんはとても信じやすい生きものであり、とくに、自分たちにとってあまりに身近なものは、なんでも、すぐ、信じてしまうのである。ぬいさんの情緒的な病気である、「感情的同調病」と「情緒的なトラウマ」からも、ある種の器のなかに人間の意識を投影することによって、ぬいさんが徐々に魂を宿していくようすがわかる。

 訳者のひとりである土屋裕によると、原著者は、輪廻転生、密教心理学、『魂の本質』などをおしえている人物であり、多くのぬいぐるみの友人・仲間として生活をしているそうだ。きっといまも、ぬいさんとの対話を重ねていることだろう。

河合隼雄『こころの処方箋』

 人間はたったひとりで生きることはできない。しかし「自立」ということは、長いあいだひとびとのこころを惹きつける標語として、その地位を保ちつづけているようである。

 “自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしてゆくことによって自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれてでてくるものである。”

 たとえば、思春期のこどもが親に反抗できるのは、自らを棚にあげられるほど相手に依存している証拠である。養ってもらっていることに遠慮し自らを分相応の奴隷として扱えば決して反抗することなどできないのである。

 “子どもを甘やかすと、自立しなくなる、と思う人がある。確かに、子どもを甘やかすうちに、親の方がそこから離れられないと、子どもの自立を妨げることになる。このようなときは、実は親の自立ができていないので、甘えること、甘やかすことに対する免疫が十分にできていないのである。親が自立的であり、子どもに依存を許すと、子どもはそれを十分に味わった後は、勝手に自立してくれるものである。”

 こどもは自分の役割を考えるものである。親がいつまでもかわいいこどものままであってほしいと願えば、それを叶えようとするものである。目を薄めてでも芽生える自立心を排除し、親にとっていかに都合のよい存在になりうるか必死に模索するのである。

 “自立と言っても、それは依存のないことを意味しない。そもそも人間は誰かに依存せずに生きてゆくことなどできないのだ。自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。”

 依存を排する孤立でなく依存を裏打ちとして自立することについて、あるいは依存のなかに両者とも溺れこむことがない自立について、塩梅が必要なのである。

四方田犬彦『先生とわたし』

 師とは脆いものである。四方田犬彦は師の死後、ようやくそれを理解したのである。

 “由良君美はひどく立腹したらしく、電話口で何やら性的な話をしだした。酔っぱらっている上に国際電話なので、言葉の半分も聞き取れなかった。「先生、何をいっているのかわかりません。もう少し落ち着いてください」と、わたし。すると彼は「わかった。もうきみには一生、何も頼まない!」といい放って暴力的に電話を切った。”

 師の不可解な言動を理解できず、彼らはそのまま疎遠となった。四方田犬彦が師の隠された焦燥や嫉妬に目を向けはじめたのは、彼が由良君美について書こうと思い立ち、彼を知る少なからぬ人たちのもとを訪れてからのことである。

 “最初、わたしはこうした反応に当惑を感じていた。由良君美がわたしにそのような卑小な感情を抱くわけがないと、固く信じていたためである。”

 しかし執筆しているうちに、彼は師弟関係について自分なりに真剣に直面しなければならないというきもちになっていった。そして、とりわけ山折とスタイナーの師弟論を通過しその葛藤と背信の物語を知ったことで、自らがあまりにも師を仰ぎ見ることに懸命であったと気づく。自分は当時の彼の心情を蔑ろにしていたのではないか。

 “わたしが今後悔しているのは、若年だったわたしが、由良君美の人間的な弱さを忖度し、それに共感を向けることができなかったという事実である。わたしは自分が突入してゆく知の世界の驚異と輝きに心を奪われていて、身近にあってわたしを眺めていた他者の心中を慮ることに、まったく無関心であったのだ。”

 師の死後、学生時代に何度もくぐった家の門の先で待つ夫人はいった。
 「由良は本当に、絹のように繊細な心をもった人間でした」

 “わたしは自分が由良君由を裏切ったことなどないと信じてきたが、彼はわたしに裏切られたという気持ちを強く抱いていた。”
 果たして師弟の存続とは。良好な関係とは。

福田和也『病気と日本文学』

 “芥川は分裂病だったと言ったところで、何も彼らの真実に触れたことにはならない。”

 自殺の問題は芥川に限らず、近代日本文学を語るうえで避けてとおれないテーマである。たとえば、イギリスは相続。フランスは借金。ロシアは信仰。ドイツは山。アメリカは幽霊や亡霊、なにかおそろしいものから逃げるはなしが多いなかで、日本では、自殺なのである。ここ百二十年くらいの日本の文学史は自殺者の文学史といってもよいくらいであり、北村透谷にはじまり、有島武郎芥川龍之介太宰治三島由紀夫川端康成江藤淳など、多くの人間が亡くなっている。
 こうした状況は、実はとても異常なことである。どのくらい異常かというと、近代以前の日本の作家、文学者は、ほとんど自殺をしていないのである。唯一、柿本人麻呂に自殺説があるくらいで、逆にいえば飛鳥時代まで遡らないと例がでてこない。作家が自殺しているだけでなく、作品のうえでも、夏目漱石の『こころ』から村上春樹の『ノルウェイの森』に至るまで、脈々と自殺が重要なモチーフになっている。日本文学が近代に突入したとき、その中心に近い部分に自殺を持ち込んでしまったのはなぜなのか。

 大学時代、わたしはある人物からくりかえし、死の淵に立った景色を観測することが作家の役割であるとおそわった。彼は、あらゆる物騒な作品をわたしに紹介した。あるときは、男性によって薬漬けにされた女性が、自らの命を絶った物語の美しさを語った。あるときは、生に縋りつくよう掌に刃物を突き刺し、手相を修正する男の力強さを語った。わたしの思想はだんだん、自殺に傾倒していった。むしろ死を以て作品を完成させなければ、一流の作家とは認められないと思い込んだ。
 ――いまはそうはおもわない。なぜなら、彼の「才能」にたいする嫉妬心が身近な人間を死の淵に追いやることを、わたしは理解したからである。自らの異常性を担保するために礼賛したあらゆる作品群もまた、そういった犠牲のうえに成り立ってきたのかもしれないからである。しかし非常に残念なことに、最早その歯車をとめることはだれにもできない。それこそ、日本文学の宿命なのである。

福田和也『作家の値うち』

 わたしは、批評が苦手だ。なぜかといえば、批評には相手の弱点を突く、という行為が必要不可欠だからだ。学生時代、「批評とは自らを棚に上げ、相手の矛盾を鋭く述べることである」という見解を記憶に残して以降、なんとなく、なにかを批評することの抵抗感がいまだに拭えないでいる。
 しかし、批評への憧れのような感情はある。いわば盤面を見下ろす騎士として、戦況を観察できることはすばらしいとおもう。常人にはなかなか真似できない。わたしは、どちらかといえば共感性の高い人間なので、相手の弱点が霞んでしまう傾向にある。すると、いつのまにか客観的視点が抜け落ちてしまうのだ。

 そんななか、教授の批評はどこまでも相手との距離を保っているといえる。

 ある作家を「恥知らず」と一蹴した批評は、点数にして21点を叩きだしており、人前で読むと恥しい作品とまで揶揄されている。もしわたしが作家の視点で語るならば、こんな批評を受けたら死んでしまうのではないか、とおもうほどだ。
 しかし、これは教授の作家にたいする期待値の表れともいえるだろう。なぜなら教授は、同作家のべつの作品には、91点という非常に高い点数をつけているからだ。これは評価にして、世界水準で読み得る作品ということになる。

 わたし自身、作家の作品に点数をつける、という行為に賛同することはむずかしい。しかし、実際問題、だれかが批評を加えないことには、この世に文学賞は誕生しえない。作家の姿勢としては、善悪を超越した領域へと作品を昇華させるよう努めることが筋であるとしても、相対化されることによりはじめて、その作家の唯一性が保証されることもまた事実なのだ。
 本書には総勢100名の作家の批評がなされている。また、絞る過程で落としたものも含めれば約700点の作品について読了し、評価をおこなったのだという。これだけでも、つぎにどの作品をよもうか考えあぐねている人間にとっては、心強い指針になるのではないだろうか。

『マネー・ショート』

 いたい!とこころがぐじぐじ叫ぶ。まわりは笑っている、わたしはとても笑えない。現実を遠くへ追いやるほど、すべての悲劇は喜劇へと転じる。まさにそれだ、みんな、ジョークだとおもっているんだ。
 真実を知りたい。奇麗な薔薇には棘があるよう、ひょっとしてそれは、酷く痛みの伴う作業になるかもしれない。しかし、ほんとうのことを知らないよりはずっと良い。すくなくともわたしは、そうおもう。

 決断を他人に委ねてしまうのは、楽なのだ。自己の責任をとらなくてよい。世の風潮に交われば、なんとなく安心することができる。みんながすすむほうへついてさえいけば、迷子にはならない予感がする。――実際、そういう側面はある。
 世のなかには、有名大学というシステムが存在する。このシステムに組み込まれれば、それをうしろ楯とし、安定を享受することのできる確率は高まる。実際そのようにして、わたし自身、知らないうち幾度となく、そのシステムに守られてきたのだ。

 ゆえに、システム自体を否定するわけではない。むしろ長い年月をかけ残った枠組みにはそれだけの重みがあり、価値がある。尊重せねばならないだろう。問題は、そのシステムのうえに胡坐をかいてはこなかったか、ということだ。
 わたしは、かいたことがある。自信のない決断を実在すらしない他者に委ね、世のなかのせいにしようとしたことがある。そのくせ、うまくいかないと嘆き、挙げ句裏切られた、と、被害者面をしたことがある。
 だからこそ、いま一度問いたい。目のまえにある現実について、果たして我々はしっかり、見極めることができているのだろうか。まわりの風潮に流されてはいないだろうか。常識だと決めつけてはいないだろうか。あるいは、システムの成り立ちを、ちゃんと理解しているのか。