未題

800字のコラム

福田和也『病気と日本文学』

 “芥川は分裂病だったと言ったところで、何も彼らの真実に触れたことにはならない。”

 自殺の問題は芥川に限らず、近代日本文学を語るうえで避けてとおれないテーマである。たとえば、イギリスは相続。フランスは借金。ロシアは信仰。ドイツは山。アメリカは幽霊や亡霊、なにかおそろしいものから逃げるはなしが多いなかで、日本では、自殺なのである。ここ百二十年くらいの日本の文学史は自殺者の文学史といってもよいくらいであり、北村透谷にはじまり、有島武郎芥川龍之介太宰治三島由紀夫川端康成江藤淳など、多くの人間が亡くなっている。
 こうした状況は、実はとても異常なことである。どのくらい異常かというと、近代以前の日本の作家、文学者は、ほとんど自殺をしていないのである。唯一、柿本人麻呂に自殺説があるくらいで、逆にいえば飛鳥時代まで遡らないと例がでてこない。作家が自殺しているだけでなく、作品のうえでも、夏目漱石の『こころ』から村上春樹の『ノルウェイの森』に至るまで、脈々と自殺が重要なモチーフになっている。日本文学が近代に突入したとき、その中心に近い部分に自殺を持ち込んでしまったのはなぜなのか。

 大学時代、わたしはある人物からくりかえし、死の淵に立った景色を観測することが作家の役割であるとおそわった。彼は、あらゆる物騒な作品をわたしに紹介した。あるときは、男性によって薬漬けにされた女性が、自らの命を絶った物語の美しさを語った。あるときは、生に縋りつくよう掌に刃物を突き刺し、手相を修正する男の力強さを語った。わたしの思想はだんだん、自殺に傾倒していった。むしろ死を以て作品を完成させなければ、一流の作家とは認められないと思い込んだ。
 ――いまはそうはおもわない。なぜなら、彼の「才能」にたいする嫉妬心が身近な人間を死の淵に追いやることを、わたしは理解したからである。自らの異常性を担保するために礼賛したあらゆる作品群もまた、そういった犠牲のうえに成り立ってきたのかもしれないからである。しかし非常に残念なことに、最早その歯車をとめることはだれにもできない。それこそ、日本文学の宿命なのである。