未題

800字のコラム

ハロルド作石『RiN』

 漫画喫茶のトイレの扉は妙に近くて、芳香剤の独特のにおいが鼻についた。あまりにも惨めなきもちにうなだれるよう、無為に便座にとどまっては背中をまるめる。書きたい、書きたい。衝動が襲ってくる。書きたい、書きたい。何度そうおもったか知れない。
 しかし筆をとった途端、それまで頭のなかに広がっていた宇宙のように果てない世界はしゅるしゅるとしぼみ、わたしの手はぴたりととまってしまうのだ。うえっ、うえっ、こどもみたいに泣きながら、書きたい、書きたい、何度も何度もそう願った。

 わたしにとって『RiN』は、書けるのではないか、という希望であり、書けないかもしれない、という絶望でもあった。漫画を開けばそこには、一見平凡なおとこのこが、巫女の役割を担う凛に導かれるよう、巧妙に異界へと足を踏み入れるようすが描かれている。それらに隔たりはなく、あくまで連続した現実の先にふしぎな世界がまっている。
 凛は、いつも疲弊している。みえないものをみることに身をやつす。遠い過去の魂の記憶、つまりは、自身の記憶の不確かさから一歩踏みこみ呼びおこす、本人も知らない記憶の断片を拾ってきては、紡いでいく。そして、ふたりは呼応するようお互いの存在を気にかけるようになる。

 四年後、新たな名づけの親になるとき、わたしは巫景と凛のふたつのなまえを用意した。どちらもかんなぎを強く意識しながら、一方は月、一方は太陽であった。そして、月を選ぼうとした結果、太陽が選ばれた。凛は、皆の理想だったのだろう。対極にあるそれはいつでも希望を含んでいる。
 こちらからみると、とてもまぶしい。元来女性は陰であり、陽を兼ね備えてはいない。しかし凛は、それを補うように気高く、いつでもしゃんと構えている。だからこそ、あちらに立てばいつでもこの境界をこえていけるのだ。もうひとつの人格に委ねることではじめて、わたしは絶望の淵から逃れることができる。