未題

800字のコラム

吉本ばなな『白河夜船』

 ひとりぼっちの空間にいると、だんだん、自分とまわりとのあいだにみえない壁ができるようになる。大学受験の夏、わたしはなんだかすべてがいやになってしまったので、おうちからちっとも、出なくなった。まるでこの本の寺子のように、ねむっては起き、ねむっては起きをくりかえし、一定のサイクルに自身の身を溶かし尽くした。

 ひとは、隔絶された世界に取り残されると、生きる影をもどんどん薄くしてしまう。

 わたしの場合、なんとかその影を取りもどそうとあがいているうち、十年が経ってしまった。それでもまだ、振りかえり確認する影の色は、薄い。一旦立ちどまってしまうと、再び走り出すまでにはとても時間がかかるように、ひょっとするとわたしはあのころ、歪んだ世界に迷いこみ、立ち尽くしてしまったのかもしれない。今日までなんとか生きてはこられたものの、その場をやりすごすための手段として、欲求の捌け口を自己へ叩きつける方法ばかりおぼえてしまった。

 “もしも今、私たちのやっていることを本物の恋だと誰かが保証してくれたら、私は安堵のあまりその人の足元にひざまずくだろう。そしてもしもそうでなければ、これが過ぎていってしまうことならば、私はずっと今のまま眠りたいので、彼のベルをわからなくしてほしい。私を今すぐひとりにしてほしい”

 人間がふたたび影を取りもどすには、どうすればよいのだろう。

 まずは、外の世界へ足をかけることが先決かもしれない。おそるおそる、ひるまの明るさを肌で感じるところからはじめてみるのがよいかもしれない。すこしは、夢から目が覚めるかもしれない。平静を取りもどせるかもしれない。――いや、もしかすると、太陽のひかりが眼球に突き刺さり、いたみを感じるだけかもしれない!
 だから、わたしは肯定しない。しかし、否定もしない。寺子と岩永のようにしてなんとか生にしがみつくことが、時にはひとつの生命存続手段として機能することもある、と、感じている。