未題

800字のコラム

綿矢りさ『蹴りたい背中』

 そうか。「さびしさは鳴る」のか、と。たしかにそうだったかもしれない。クラスのなかで孤立する、というのは。けれどわたしは、あのころのわたしは、そんなにもまっすぐ、現実を感じとることができていただろうか。いつでもかき消していたようにおもう。たとえば、ひたすら本に向かうなどして。なにかべつのところに意識をとばして。
 だから、彼女はものすごく強い。聴覚と、視覚と、持ちうる感覚器官を存分につかって傷ついている。そんなに矢面に立たなくてよい、といってあげたくなるくらいだ。全身で、痛みを表現しているのだ。

 「蹴りたい」という衝動はきっと、彼女の本能に近い欲求だ。わたしも昔、おんなじような感情に掻き立てられたことがある。すやすやとねむっているまだ小学生くらいの妹をみていて、ふと、「鼻をつまみたい」とおもった。「蹴りたい」は、これとよく似ている。実際、わたしはほんとうに、妹の鼻をつまんでみたことがある。
 また、にな川が追い詰められるようすをみていて、彼女はおもう。「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」。たいしてわたしも、鼻をつままれた妹が苦悶の表情を浮かべると、おもう。「もっと苦しむ姿がみてみたい。いっそ、口ごとふさいでしまいたい」
 お互い、相手のことをきらっているわけではない。むしろ、わたしは妹のことを深く愛しているとおもう。けれど、そのきもちとは裏腹に、なぜか相手を傷つけるようなことがしたくなる。これはいったい、なんなのだろうか。

 絹代に「にな川のことが本当に好きなんだねっ」といわれたハツは、自分が抱いているすき、とは程遠い感情との落差にぞっとしている。それらのあいだにある溝には、とんでもない人間の狂気が潜んでいるのだとわたしは感じるのだ。
 しかし、いま、それをなんらかのかたちで明らかにしてしまうと、ハツも、そしてわたし自身も、これまで懸命に保持してきた大切ななにかが、その糸が、ぷつんと切れてしまうことがわかっている。だから、できればわからないふりをしていたい。いつか自分を、誤魔化せなくなる日がくるとしても。