未題

800字のコラム

川上弘美『センセイの鞄』

 ていねいになでつけた白髪、折り目正しいワイシャツ、灰色のチョッキ。高校時代に国語をおそわったけれど、さして熱心に授業をきいたわけではない。「先生」でも、「せんせい」でもなく、センセイ。それは数ねんまえ、たまたま駅まえの飲み屋でとなりあわせたとき、なまえがわからないのをごまかすためにそう、よんだのがきっかけだった。
 それなのに、いつからだろう。センセイ。こんなにも無性に、何度でもそうよびたくなるようになったのは。おもわずなみだがあふれそうになるこの感情を、わたしは知っている。切ない。胸がぎゅう、としめつけられて、いたい。ほんとうは距離をはかることもできたはずなのに。結局、それさえできないくらいおもいはあふれてしまった。

 ほんとうに伝えたいことは、ことばにさえしたくない。陳腐な表現でおわらせたくない。この先につづく未来があると信じたいきもちと、そうして、妙な強がりと。だから、右往左往する。目を逸らしてみようとしたりする。けれど、ほかのひとじゃあ、だめなの。やっぱり、センセイじゃなきゃ、だめなの。

 「ツキコさん」といいながら、センセイはまっすぐ座りなおした。
 「ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいをして、いただけますでしょうか」

 はあ?とわたしは聞き返した。センセイ、それ、どういう意味ですか。もう、わたし、さっきからすっかりセンセイと恋愛をしている気持ちになってるんですよ。

 センセイが、ほほえんだ。ほほえみながら、わたしのてのひらをふたたび、センセイのてのひらで包む。わたしは、センセイにかじりついた。わたしの方から、センセイの腰にあいた方の手をまわし、体を押しつけ、センセイの上着の胸のあたりの匂いをすいこんだ。かすかにナフタリンの匂いがする。
 ぎゅう。センセイの存在をたしかめるように。センセイとわたしの境目が、なくなるくらいに。どれだけ抱きしめても足りない。ふたりの隙間を埋めるようにして、おもいきり、ぎゅう、と。センセイ、センセイ。