村上龍vs村上春樹『ウォーク・ドント・ラン』
いつからかこう考えるようになった。“がんばらないわたしはわたしであってはならない。がんばることだけにわたしの価値があるのだ。”いまおもえばとても極端な発想だけれど、わたしは大真面目に、この原則に従い生きてきた。
わたしのなかのがんばる、とは、がむしゃらにやるということだった。体当たりで突撃するということだった。つねにつねにつねにつねにその方法を実践していたわたしは、ある日突然、壊れた。
“ぼくはがまんする。だから、いいたいことがあるでしょう、それに至るまでにね、がまんしてため込んでいるというのかな。で、ようし、もういいだろうと思うと、泣いちゃうわけよ、いい、いいとかっていいながら(笑)。”
村上龍のことばからは、それとおんなじにおいがする。つまり、あるときを境にぱたりと動けなくなるか、あるいは、持続性を保つことができなってしまうのではないか。ひとはこれを、才能の枯渇とよぶかもしれない。
わたしは、村上龍のように笑っていることはできない。過去と未来は想像以上に、なめらかな線でつながれているものだ。きょうの延長線上にしか、あすはない。突然壊れてしまったのは、その線を無視しつづけた代償であり、泣いてしまうのは、精神をすり減らしたことでみられる、一時の幻影ではないか。
わたしはこれまで、その現象を奇跡として、崇めてきた節がある。ためこんだ感情を爆発させた瞬間のひかりには、気迫があり、儚さがあり、やはり惹かれるものがある。けれど、表現の本質とはほんとうにそこにあるのだろうか。
いまのわたしなら、つなげることを第一に考える。その選択は、未来に香る甘やかな期待を放棄することになるかもしれない。極端な快楽はやってこない、夢みるのをあきらめるということだ。
しかし不思議なことに、この段になってようやくわたしは、とおくのほうにわずかに光射すその景色へ向かう準備を、ととのえはじめたような気さえするのだ。
なんねんかかるかはわからない。なん十年かかるかもしれない。ひょっとすると、一生辿りつけないかもしれない。それでも、むりやり身体を揺り起こすことなく、そのときを気長に待ちながら、いまを精いっぱい生きたい。