未題

800字のコラム

いしいしんじ『ぶらんこ乗り』

 ゆあーんゆよーんゆやゆよん。ぶらんこのようにゆらゆら揺れる、あっちの世界と、こっちの世界。きょうはふらり境界線に足をかけ、誘われるよう視線をおとした。いしいしんじ。ひらがなが、とても美しい。
 なんとなく手に取り、本を開く。漢字ほどぎゅうぎゅうしていない、カタカナほどかくかくしていない。ひらがなのたくさんあるその文字列にこころ奪われ、その場でしばらく、立ち尽くした。
 この日本語の、たどたどしい感じ。自分が意識していないところの、おくのおくのほうにあるものをぐうっと、引っ張り出そうとすると、そう、なっちゃう。それはまるで、まだことばをうまく話せないぼくが、ママにわかってもらいたくて必死に発する音と、よく似ている。
 息が詰まって苦しい。でも、なにか、出さなくちゃ。

 だから弟は、動物のおはなしをたくさんかいた。それが、あっちの世界とこっちの世界をつなぐ、唯一の架け橋だったから。だいすきなおねえちゃんによんでもらうため、ただ、ただ、かいた。それしかなかった。ぼくにはそれしかなったから。
 だから、おねえちゃんが動物のはなしをうそっこだっていったとき、とてもかなしかった。おねえちゃんとだけは、つながれるとおもっていたんだ。いつもいつでもじゃなくたって、ぶらんこがくりかえし行き来するよう、何度も、何度でも、つながれると信じていた。

 ほとんどのひとは、ほんとうのことを知らない。まさかあの気性おだやかな動物園のゾウが、敷地に迷いこんだハトを、そのながあいお鼻でぶんと殴り、気絶させ、ぐりぐりぐりぐり、まあるいハトボールをつくっちゃうなんて。挙句、ぽーんと蹴っとばし、おもちゃにしちゃうなんて。

 「そんなのがぜんぶ本当なら、私、本当のことなんて大っ嫌いだ」
 おねえちゃんはいった。

 でも、ぼくは。それでもおねえちゃんには、「こっちの世界」にきてほしかった。だから命をかけて、ありったけの引力で押しとどめる。半分、死にかけたおねえちゃんを取り戻したくって。だってやっぱりぼくには、それしか、なかったから。