江國香織『落下する夕方』
わたしにはみえなかった。だって、あなたが身体をぐるぐると鎖で縛られ、何十キロもある足かせを引きずりながら歩いている姿なんて、想像もできなかったんだもの。
むしろ、いつでも自由にみえた。あなたは、働かない。外出だって、ほとんどしない。ふだんはあのたたみの部屋で寝そべって、愛用のラジオを聴いているだけ。
それもあなたの家じゃない。わたしの家でよ。あの晩、あなたが突然わたしの家に転がり込んできたとき、それはもう、狂ったおんなだとおもったわ。
だって、ともだちならまだわかるの。でもあなたは、それまでわたしの彼だった健吾がすきになったおんなでしょう。そんなおんなとどうして、共同生活をするっていうの?
けれど、あなたがそれをあまりにも当然のように振る舞うから。そしてわたしも、あのときはちょっとおかしかったみたい。健吾となんとかつながっていたくて、その状況を受け入れた。
実際、あなたは驚くほど邪魔にはならなかったもの。いてもいなくっても、どっちもおんなじみたい。それなのに、あなたがいないと途端、部屋のどれもが無機質で、色あせてみえるようになった。
あるときあなたは突然家を出て、不倫相手とも知らない男のもとへふらり、出かけていくことがあった。またあるときは、わたしが涼子からもらった台湾行きの飛行機を、勝手につかっちゃったわね。
だから、わからなかったの。あなたがあんまりにも自由にみえたから。「逃げるのってものすごく苦痛ね」ってわたしがいったとき、「知らなかったの?」といって微笑んだあなたのことが。
ほんとうはあなた、そうしてずっと、傷ついていたのね。苦しかったのね。
「そういう人生なの。逃げまわって逃げまわって、でも結局逃げられない」
――そういう人生。
わたしね、正直いえばあなたのこと、とても羨ましくおもっていた。それが、わたしがまだまだ甘かった、なによりの証拠だったのね。
こころの重さは決して、他人にははかれない。