未題

800字のコラム

吉本ばなな『TUGUMI』

 72ページから突然はじまったものがたりに、わたしはびくり、目をさました。せっかくおひるすぎの電車に揺られうとうときもちよくなってきたのに、それまでぼんやりと追っていた字面が突如、はっきりと、文章となり、ことばとなって、わたしに迫ってきたからだ。おもわず本から顔をあげ、あたりをぐるり、見渡した。どことなく空気が張り詰めている。
 ――けれどきっと、それはわたしの気のせいだ。とぼけた顔のサラリーマンや、外をぼんやりながめるOLの姿が、ゆるやかな日常の流れを表わしていた。

 幼馴染のつぐみとまりあは、漁業と観光業で静かにまわる故郷のまちで幼少時代をすごした。けれど、まりあが東京の大学に進学すると同時に、ふたりは離ればなれになってしまう。そのまりあが、ひさしぶりに故郷へと帰ってきて、つぐみとの再会を果たす場面。

“「うるせえ、黙ってきいてろ。それで、食うものが本当になくなった時、あたしは平気でポチを殺して食えるような奴になりたい。もちろん、あとでそっと泣いたり、みんなのためにありがとう、ごめんねと墓を作ってやったり、骨のかけらをペンダントにしてずっと持ってたり、そんな半端な奴のことじゃなくて、できることなら後悔も、良心の呵責もなく、本当に平然として『ポチはうまかった』と言って笑えるような奴になりたい。ま、それ、あくまでたとえばなしだけどな」”

 つぐみは善悪を、世のなかに流され合わせない。幼いころから身体が弱く、あすの“生”が保障されないなか懸命に生きてきた彼女にとって、そんなこと、どうでもよいことなのだ。彼女は、彼女の築き上げた絶対的価値観のもと、生きる。それこそが、彼女にとってのひかりであり、「永久機関」となるだろう。
 わたしも、本来、生きるとはそういうことだとおもう。けれど、ほとんどの大人はそれを忘れている。あるいは、考えないようにしている。だから、うるせえ、黙ってきいてろ。おまえはおまえの価値観でほんとうに生きているのかよ。