村上春樹『風の歌を聴け』
良い小説は、よみたいときいつでも、わたしの手もとにない。すぐひとに渡してしまうからだ。
ひとりめは、靱帯を損傷し入院したある女性のお見舞いにもっていった。まだ彼女と出会ったばかりのわたしは、東京を飛びだして田舎に遁走するよう駆け込んだ、ひとりぼっちの人間だった。だれも知らない土地でひとり人生をやりなおすというのは、わたしにとって東京の、あの、痛みにまみれた土地の景色を霞ませるために必要だったものの、しかし、実際のところなんの後ろ盾もないふあんから、必死に、温もりに手をのばしていたことは事実だった。
彼女は、わたしがお見舞いにいくというとすこしぎょっとした表情をみせ、その距離感に戸惑っているようにもみえたが、わたしは長めの手紙を添え彼女にその本を手渡したのち、すこしだけ会話をしてから、早々に立ち去ることにした。彼女との縁はそこで途絶え、わたしはまた、ひとりぼっちになった。
ふたりめは、仕事で毎度顔を合わせるおねえさんだった。彼女におすすめの本を尋ねると、ある一冊の本を渡され、わたしは、そのお礼としてこの本を手渡すことにした。そんなこともすっかり忘れたころ、ふとよみたくなったこの本が、本棚の二段めの右端に存在しないことに驚いて、おもわず本屋に走り手に入れたのち、そういえばふた月ほどまえ、彼女に託したのだということを思い出したのだった。
“僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。”
あれから三年以上経った。いまはすこしだけ慣れ親しんだ田舎の景色が、わたしのこころに新しい風を吹かせている。ときたま思い出す東京の、六義園の、塀の外側をぐるぐるまわっていたころの、苦い記憶にすこしだけ上塗りされた景色がある。それは、田舎で出会ったひととの追憶から紡ぎ出される美しい心象風景が、痛みにすこしだけ、彩を添えてくれたからだ。
風は歌っているだろうか。わたしにも、聴ける日がくるだろうか。
水島広子『ダイエット依存症』
摂食障害とは、体型や体重という「形」にとらわれる病気である。こと「形」へのとらわれにかんしていえば、摂食障害になる背景には「ありのままの姿で自分を肯定された経験が乏しい」という問題があり、これにより培われたトラウマによってダイエットという「強迫行為」に依存する、まさに「とらわれ」の病理であるということができる。
身近なところに批判的なひとがいると、人間はのびのびと、ありのままの自分を表現することができない。これは批判という形をとらないとしても、親の不安が強く、植えつけられた罪悪感のために、親を支える役割を引き受けて育った場合などにも見受けられる。たとえば、「~なら愛情を持つ」という「条件つきの肯定的関心」である。
ひとが「コントロール感覚」を持つためには、「自分」をある程度肯定していることが必要となる。しかし、「無条件の肯定的関心」を向けられることのなかった人間には、「本質的な肯定感」ともよべる「自尊心」が乏しく、自分についての不確かさを抱えたまま生きていくことになってしまう。
摂食障害を治療するにあたっては、その癒しの本質は対人関係にあると考えられる。「人間の価値は外見ではない」ということを、実際の人間関係のなかで、肌で感じてもらうという体験を積み重ねることである。ここでは、体型に意味があるかないかを論じるのではなく、本人が感じているきもちを周囲が一貫した言動によって肯定していく、ということが重要となる。
「こんなことを知られたらきらわれるだろう」とおもうようなきもちをすこしずつ相手に打ち明け、受け入れてもらう、というプロセスを経ることができれば、「なにもいえずに抱え込む」パターンから成長し、相手にだいたいのことをいっても、受け入れてもらえるという信頼感をもつことができる。しかしながら、そのきっかけをなかなか失している人間にとっては、これまた途方もない旅路であると感じられよう。
生月誠『不安の心理学』
真っ暗で底なしでなんにもなくて、そこに自分の意識が下に下におちていって同化する、意識が浮上しておちて、浮上しておちて、目まぐるしく夢をみて、たまになんにもなくなって、夕方になる。目が覚めてわたしは、自分がいったいなんなのかよくわからなくなる。
不安とはいったいなにか。ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーはその著書『存在と時間』のなかで、「恐怖が臨んでいるところのものは特定の恐いものであるが、不安が臨んでいるところのものは無であり、なんら特定のものは存在しない」と述べている。
本書ではとりわけ対象のない不安については慢性不安といい、不安への直面を、日常的にそれまで親しんでいた非本来的な人間の在り方から、本来的な在り方に自分を連れ戻そうとする過程としてとらえる考えを「不安根源説」とよんでいる。
一方、これとは対照的に、不安は甘ったれている証拠であり、怠けて楽をしようとするからわけのわからない不安におそわれるのだと主張する考えを「不安―甘え説」とよんでいる。
“夏目漱石の『行人』という小説を読みました。主人公の一郎には、生活のために働かなければならないという面が、ほとんど感じられず、彼は一日中思索にふけっていて、すべてが疑わしくなり、強い不安におそわれるようです。私のように、生きるために必死で働かなければならない者は、いろいろ悩みはありますが、『行人』のようなばかばかしいことに悩むようには、絶対にならないと思います。”
これらの異なる見解はおそらく永遠に交わることはなく、また、「不安根源説」の人間が抱える漠然とした不安は、「不安―甘え説」の人間にとっては「ひまだから」と一蹴されるような些細なざわめきでしかないということができるであろう。
どちらがどうということはないのだが、しかし、「不安―甘え説」の人間の視線をかいくぐりながら、不安と直面し人間を解明しつづけることは果たして無意味なのかと、わたしは地球の片隅で問いたいのである。
藤田博史『性倒錯の構造』
男と女とはなにか。そもそも性差にはふたつあると筆者は語る。生物としての性差と、象徴界における性差である。これらの相対的な関係を明らかにするためには、男性、女性は互いをその欲望の対象として選択するという対称性にもかかわらず、子は必ず、母という女性から生まれてくるという非対称性に目を向けなければならない。つまり、子にとって欲望の対象はすべからく母親だということである。
“女性は母を超えて男性に向かわなければならない。母を欲望の対象から欲望の出発点に置き換えることにより、はじめて欲望の対象が異性になりうる。すなわち、女性の欲望の達成の過程には、まず母の位置まで辿り着き、母を踏み台とした上で男性を欲望する、という迂回の手続きが要請されている。”
しかし、ここである問題が発生する。女性は母の場所に自らを平行移動させることで、エディプス的状況を解決するのでなく保留へと持ち込んでしまい、これにより、女性はその性の同定においてつねに動揺し、その旅のなかで漂流せざるをえないというのである。
“日常生活のなかで、女性は、自分が女性であるということの背景には、なにか大切なものが失われているということを、それとなく知っている。女性にとって、なにかを手に入れるということは、同時になにかを失うということを意味する。”
具体的にいうならば、女性は男性との比較により、自ら欠けているものをまず他者の場所に見いだす。つまり、女性という場所そのものが、男性のファンタスムに支えられ、事後的に浮かび上がるような曖昧で不確かな場所であるということができる。
したがって、女性の位置は男性の欲望のヴェクトルによって指し示され、また女性はこのヴェクトルを受け、自らの位置を仮固定する。いわば欲望のヴェクトルの玉突きである。しかも、玉は永遠にすれちがいつづける虚構のゲームといわざるをえない。あらためていうまでもなく、男性と女性の関係は謎に満ちているのである。
立川談春『赤めだか』
冒頭からなみだがあふれてとまらなかった。わたしは枕に顔をうずめながら、ほんとうに変わる気があるのかと何度も何度も問うた。
「落語は人間の業の肯定だ」
人間って極限まで追い詰められたら他人のせいにしてでも云い訳しちゃうもんなんだ。
“聴く者の胸ぐらつかんでひきずり回して自分の世界に叩き込む談志の芸は、志ん朝の世界とは全く別物で、聴き終わったあと僕はしばらく立てなかった。好き嫌いや良否を考えるスキも暇も与えてくれない五十分が過ぎたあと、思った。
志ん朝より談志の方が凄い。”
上手な落語が必ずしもひとのこころを打つわけではない。観客はめいめい「名人芸だ」と笑顔で語りながら会場をあとにしてゆくかもしれない。しかし、談志の芝浜のときのように、おもいつめた顔でうつむきながら帰ってゆくひとはひとりもいないのだ。
“談志の弟子になろうと決めたのはその時だった。”
虚飾にまみれたことばになんの意味がある。相手をよろこばせる上辺だけのおべっかに歓喜するほど純粋なのか。
人間のどろどろとしたおくのおくの醜いところに手エ突っ込んで、でてきたへどろを掻き分け残るたったひとつの良心信じ、わたしは生きている気がする。まだ生きている気がする。
“修行とは矛盾に耐えることだ。”
やらなくても日常は流れていく。実際、そうして何年も何年も流れていく。けれど変わるきっかけなんて目のまえに、その瞬間に、いくらでもころがっているではないか。だとして、やるかやらないかは自分自身の問題ではないのか。
“重ねて云うが、談志は揺らぐ人なのである。ならばその揺らぎを自分のプラスに利することはできないか。”
長くやってりゃ形にはなる。ということは長くやらなきゃ形にはならないということで、形にならない部分をどんな知恵で補ってくるか、談志は試しているのでないか。拙くてもいい。とにかくあきらめんなよ。
山岸明子『心理学で文学を読む』
ものがたりの展開を自分の意思で定めることはむずかしい。ひとが夢をみるときその結末を都合よく改変するのが困難なように、でてきてしまう描写について、我々はそれを書き留めることしかできない。
“優れた文学作品は人間性や人間の心理についての深い洞察に満ちており、そのことが読者を惹きつけ、読みつがれる大きな要因になっていると考えられる。小説はフィクションであるし、作家は学者ではないが、心理学とは異なった形での人間性理解のエキスパートによって書かれていると思われる。”
「何が人を立ち直らせるのか」ということにかんして、本書では村上春樹『海辺のカフカ』、山田洋次『学校Ⅱ』、小川洋子『博士の愛した数学』と湯本香樹実『夏の庭』、デイヴ・ペルザー『“It”(それ)と呼ばれた子』を取り上げ、文学作品では多く描かれる、つらい経験をしてきた者の回復を、発達心理学の用語や理論を用いて読み解いてゆく。
わたしは今回、これらのどの作品についても未読であったが、しかしあらすじも含め丁寧にかかれた解説をよんでおもわず、なみだすることもあった。人間によって深い傷を負ったはずの人間が、人間によってその傷を癒していく――矛盾した姿にどうしてもこころ打たれてしまうのである。
また時折、本書では心理学の観点ならではのおもしろい考察も垣間みえる。
“佐伯さんとの交流による立ち直りに関しては、性的な交流ではなく、母親であることを明かして過去を語ることが重要であるように思われる。”
“本作品では年齢や置かれている状況は成人期であっても、心理学的にはまだ青年期にとどまっていて、他者へのケアでなく、自分が自分であるためにどうするかの観点しかない大人が目立つ。”
小説家にとっては、かくも冷静に作品を分析されるのは少々恥ずかしいところがあるかもしれないが、しかし読者として、どうしても書き手の側に立ってしまう人間には、メタ認知をメタ認知するのは興味深いといえるだろう。
土居健郎『「甘え」の構造』
「甘え」とは日本人の心性の特徴であり、現代の社会不安を理解するために有力な観点を提供する鍵となる概念である。「甘え」はそれ自体が病的心理の基礎にある悪ではなく、「甘え」が何らかの理由により否認され、あるいは意識下に抑圧された場合に害をなす存在であることを筆者は主張している。
では彼がなぜ甘えということを問題にするようになったかといえば、渡米により自分自身の考え方や感じ方の異りを折にふれ感ずるようになったからである。たとえば、“Please help yourself.”という、日本人にとって客をもてなすにはあまりにおもいやりのない挨拶に、その一端をとらえることができる。しかし、彼は同時に、アメリカには「甘え」という概念それ自体がないわけではなく、むしろ普遍性があるのだと語る。それこそフロイドの同一化であり、対象との感情的結びつきの原初的形態である。
ひとは本質的に何らかの集団生活を営まなければ、生きることすら覚束ない生きものである。とりわけ日本人は集団主義的といわれるが、実際のところ精神障害をわずらう欧米人だって、日本人の場合と同じく、集団生活に敗れた結果であるということができる。
つまりひとは、「甘え」という名の同一化を果たせなかった場合、病的心理に陥るのである。そう考えると、親が子を甘やかすと、子は甘えた風を見せても、本当には親に甘えられなくなるという、一見するとわかりにくい状態を説明することができる。甘やかす者は相手と同一化しているのである。いいかえれば甘やかす者は相手の同一化を先取りしていると考えられる。だから相手は甘やかす者には同一化できなくなり、したがって甘えられなくなってしまうのである。
冒頭にもいったように「甘え」それ自体に罪はない。むしろそれは本来無邪気なものであり、人間を結びあわせるために必要欠くべからざるものだと筆者は語る。そういわれると、わたしもじょうずに甘えたいと救われるおもいがする。